6. 「うつ」をめぐるさまざまな話題
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1. 「うつ」をめぐるさまざまな話題
1-1. うつ病の多様性
「○○病」というからには一定の症状と原因を備えた輪郭明瞭な疾患概念と思われそうだが、今日のうつ病はそのようなものではない(→5. うつ病と双極性障害) うつ病の症状はDSMで明確に定義されているが、原因については何の約束事もない table: 表6-1 うつ病の原因と背景
類型 原因・背景(例) 伝統的分類
脳の機能変調によるもの 特に原因が見当たらない 内因 心理社会的ストレスによるもの 過剰労働, 家庭の不和, 各種のハラスメント 心因 脳血管障害による脳機能の低下のために抑うつ症状が現れることはよくある とりわけ膵がんでは腫瘍が発見される前に抑うつ症状が見られることの表現 薬剤の副作用によるうつ病も医学の発展とともに増えている
心理社会的な要因に由来するうつ病は今日きわめて多く、その最も悲劇的な形が「過労自殺」という形でしばしば報道されている
このように「ストレス因の蓄積によって心が折れてしまう」タイプのうつ病こそ、今日のうつ病のイメージの中核をなすもの
たとえば、いつ態度が豹変して怒り出すかわからない親の顔色を見て過ごすうちに、他人を容易に信頼できなくなり、親密な人間関係を結べなくなるといったもの
同様の現象は、アルコール依存症に限らず何らかの事情で家庭の養育機能が歪められた場合に、社会のさまざまな場面で観察される
そうした背景がストレス耐性を低下させて抑うつ傾向を助長したり、うつ病からの回復を遅らせたりすることも多い 本格的な抑うつエピソードの診断基準を満たすほど重症ではないものの、一定の抑うつ症状が長期にわたって持続するもの 症状は軽めでも、治療の効果があがらず慢性化しがちであるとされる
以前には抑うつ神経症と呼ばれたものにほぼ相当し、こうしたケースでは生い立ちやパーソナリティの影響はいっそう重要であるものと考えられる 1-2. うつ病と適応障害
特定のストレス因に対する反応として、情緒や行動に何らかの異常が生ずるもの 「他の精神疾患の基準を満たさない」に注意
当然ながらうつ病も含まれる
ストレスに対する反応として生じた抑うつ状態であっても、抑うつエピソードの診断基準を満たすなら診断は「適応障害」ではなく「うつ病」になる このように、適応障害とうつ病の区別は理論的には一応明快であるが、実際には区別の難しい事が多い
とりわけ、時間の経過とともに症状が変化することが事情を複雑にしている
しかし、仮に隣人がそこに住み続けたとすれば、当事者の精神状態がさらに悪化して本格的な抑うつエピソードを示した可能性もある そのような場合には、その時点で診断は適応障害からうつ病に変更される
しかし現実には、当初に「適応障害」として作成された診断書がそのまま更新を繰り返されたり、抑うつエピソードの診断要件を厳密には満たさないケースに「うつ病」の診断がなされたりすることが起きやすい 医師の不適切な判断によることもあるが、実際に微妙で判断の分かれるケースも少なくない
このような現実を踏まえれば、適応障害とうつ病の両者を峻別するよりも、連続したものと見るほうが理にかなっている
すなわち、適応障害の抑うつ型と、心理社会的ストレスに起因する心因性のうつ病は、重症度や持続時間に違いがあるものの基本的に同様のストレス反応であるとする見方
適応障害とストレス反応性うつ病からなるこの一群が、今日の精神科外来で最も腫瘍な受診理由の一つであることは疑いない
実際に変調のきっかけとなるストレス因はきわめて多岐にわたる
若年者ならば学校・友人・異性関係や親との葛藤、成人ならば結婚・離婚、家庭の問題と職場の問題、さらには高齢者の生活の困難や介護問題など、生きていくうえでのあらゆる困難が適応障害の潜在的な原因であるといってよい
こうした事態の多くは、以前には地域・家庭・職場などその人の属するコミュニティ・ネットワークのなかで、その場に応じた支援を得て解決されていたであろう
多くの人々が適応障害をきたして医療現場を訪れる現状は、我が国の社会から各種のコミュニティが急速に姿を消したことの必然的な結果とも考えられる
したがって、このような現状を根本的に解決することも医療の枠内の努力では足りず、コミュニティの再構築を待ってはじめて可能になること
1-3. 「現代型」あるいは「新型」と呼ばれる現象
21世紀に入った頃から言われるようになったもので、従来のうつ病のイメージとは大きく異る印象を与えるケースが現場で増えてきたことを反映したもの
かつてのうつ病の典型
心身全体を巻き込んだ重篤な不調であり、希死念慮という症状からわかる通り本人の苦悩は深刻 しかし本人はうつ病の症状のために自責的となり、ひたすら自身の能力・努力の不足を責めて自分が病気であることを認めない
見るに見かねて周囲がい者へ引っ張っていく
これとは対照的に抑うつ症状を訴えて自ら積極的に受診する、比較的軽症の患者が増えてきたこと、なかには自責的どころか、ストレス環境からの逃避や周囲への責任転嫁が目立つ消すがあることなどの指摘があり、これらを「現代型」とか「新型」などと呼ぶようになったもののようだ
うつ病という診断から何らかの利益を引き出そうとする、身勝手な態度や行動への非難がこの名称に託されることも少なくない
こうした風潮に対して、専門学会は「「現代型」や「新型」はマスコミ用語であって学術用語ではない」という立場をとっており、精神医学上の公式見解は今のところ存在していない
1980年代以降、精神科の診療所が増加するとともに人々の意識も徐々に変わり、病気や変調の早い段階で受診することが増えた
うつ病についても例外ではなく、そのように早い段階で受診したケースが従来と違った印象を与えることは、当然ともいえる
同じ時期にDSM-IVが普及してうつ病の概念が以前より広がったことも、ケースの多様化の一因となっただろう 一方では、以前と違った特徴をもつケースが実際に出てきているとの指摘もある
一般に人間の成長過程においては、幼児期の自己愛をほどよく制御して他人と折り合いつつ、社会適応を学んでいく
ところが昨今のわが国では、少子化その他の要因のために自己愛の制御を学ぶ機会が乏しく、就職の段階で社会性が十分に育っていない若者が少なくない
そうした若者が庇護的な環境を出て厳しい職場に入った時、自己愛を手ひどく傷つけられたお感じて不調に陥ることがある
自己愛の傷つきが背景にある場合でも、抑うつ気分や睡眠障害などの症状は他のうつ病と変わりがないが、自責感は概して乏しく、逆に自分を抑うつに追い込んだ環境や関係者を非難する傾向が見られるという 「現代型」や「新型」はこうしたさまざまな傾向をひとまとめに括った雑駁な造語と考えておくのがよさそうである
2. うつ病の治療をめぐるいくつかのトピック
2-1. 内因性うつ病に対する小精神療法
急性期における休養の必要性はどんなうつ病でも変わりがなく、抑うつ症状に対して抗うつ薬が有効であることも同じ
しかし、精神療法や社会復帰へ向けての心理的援助のあり方は、事情に応じて違ってくる可能性がある DSMの導入以前、「うつ病」がクレペリン以来の内因性疾患を意味していた時期に、治療者の心得として広く推奨された 1.うつ病は治療の対象となる「不調」であり、「単なる「気のゆるみ」や「怠け」ではないことを告げる
うつ病患者にとって自身の「不調」を認めることがいかに難しいかを反映
このように告げたところで患者が簡単に納得するとは限らないが、患者だけでなく同伴の家族や関係者にも説明の伝わる点が重要
4. 治療の間、自己破壊的な行動(自殺など)をしないことを約束してもらう 希死念慮について恐れず話題にすることは、自殺予防活動のなかでも推奨されている
うつ病の患者は早い段階から希死念慮に悩まされていながら、それをうちあけることができずに悶々としていることが多い それが話題にできることでかえって安心するもの
希死念慮を確認したうえで、それがうつ病の症状であり回復とともに必ず消退することを伝え、決して早まったことをせず治療に専念するように促す
さらに、こうした投げかけに対して患者が返事できずにうつむいてしまうようなら、入院を考慮するタイミング
7. 服薬の重要性や副作用を告げておく
抗うつ薬の抗うつ作用は、2週間程度服薬し続けないと現れてこないが、副作用は開始直後から出現する
したがって、服薬開始当初は、プラスの効果が感じられず副作用ばかりが起きるという、患者には苦しい状態が続く
特に三環系抗うつ薬は後述のように不快な副作用が多かったため、あらかじめよく説明しておかないと服薬中止がきわめて起きやすかった このように「小精神療法」は、うつ病の精神病理や患者の思考特性、薬物療法の機微などを踏まえて編み出されたもので、今日でも大いに活用できる ただし、これは主として内因性うつ病の治療を想定して考案されたものであることに注意せねばならない
内因性うつ病は原因不明の脳の機能変調によるものであり、身体疾患や心理社会的ストレスに依らずに発症・進行し、やがて回復に向かう
ときとともに自然に治癒する傾向のあることが、うつ病の経過における何よりの光明であり、治療にあたっては必要な時間を費やして自然治癒力を十分に発動させることが主眼となる
小精神療法は「待ち」の戦術を基本とするものであり、それはこのようなうつ病の特徴を正しく踏まえたものだった
6. 人生に関わる重要な決断(例:退職や結婚)は治療終了まで延期するよう助言する
2-2. 今日のうつ病に対する精神療法の考え方
急性期における休養の勧めや自殺防止、すなわち「小精神療法」の1, 2, 4にあたる配慮は、原因や背景にかかわらず、うつ病治療の一般的心得として重要
しかし、心理社会的ストレスを背景とした適応障害型のうつ病の場合、それだけで十分とはいえない
発病の背景となったストレス因がある場合など、休養して療養すればうつ病はよくなるが、元の職場に何の対策もなしに戻ればいずれうつ病が再発するだろう
このようなケースでは、急性期の抑うつ症状が改善して社会復帰の時期が近づくにつれ、ストレス状況を改善し再発を防止するさまざまな方策が必要となる
ストレスフルな環境のあり方を改善する外向きのもの
職場復帰にあたって配置転換や業務内容の変更を検討する
当然ながら周囲の関係者の理解と協力が必要
当事者自身のストレス対処能力を高める内向きのもの
うつ病に対する認知療法は、抑うつ状態の最中に行うのは難しいが、回復期の振り返りや再発予防には大きな効果が期待できる
このように、ストレス背景をもつうつ病の治療においては「待ち」だけでは十分ではなく、事情に応じて周囲の環境や当事者の認知のあり方に積極的に働きかけていかねばならない
パーソナリティや生い立ちの問題と関わりの深いうつ病のケースでは、さらに長い時間をかけて問題に取り組まねばならないこともあり得る
うつ病の患者をとりまく人々の心得として「励ましてはいけない」とよく言われるが、ここには誤解のある場合が多い
この言葉はもともと「たとえ善意からであれ、うつ病の患者をむやみに叱咤激励したりハッパをかけたりするのは好ましくない」というのが原義だった
同じ「励ます」にしても表現の仕方はいろいろある
「他人にはわからない辛さがあることだろうが、うつ病は必ず治るそうだから、ゆっくり休んで元気になってください」といったものであれば、励ますことを禁じる理由は少しもない
自己愛的な葛藤が強くて現実の人生に直面できず、そのために回復が停滞している若者等の場合、時には治療者があえてハッパをかけることも必要かもしれない
「小精神療法」に重要な決定は延期するとあるのは、自責感の強い内因性うつ病のケースには適切な助言であるが、疾病への逃避傾向のあるケースでは本人の不決断を助長する可能性がある
特定の教訓を金科玉条として報じるのではなく、うつ病の特徴を知った上で個々のケースの事情に応じて工夫をこらすことが大事
2-3. 睡眠の重要性
抑うつエピソードの診断基準(DSM-5)は9項目中、1または2を含む5項目があればよいとするが、実際には不眠はうつ病にはほぼ必発の症状であり、うつ病でありながら睡眠に問題がないというケースはほとんど見られない 疲れているのに眠れないのがうつ病のつらさ
不眠はうつ病の結果としてばかりか、原因としても重要ではないかとの指摘がなされている
もともと不眠傾向のある群とない群とを長期的に比較観察したところ、前者においてうつ病の発生率が有意に高かったとするアメリカでの調査報告
不眠や睡眠不足がストレス耐性を低減させ、うつ病を発症しやすくする可能性は十分考えられる
一般的な不眠の訴えに対しては、まず睡眠や生活全般の状況について聴取するとともに、睡眠衛生指導を行うことが推奨される
精神科の外来で不眠が訴えられた場合、うつ病をはじめとする精神疾患の可能性を検討すべきことは言うまでもない
不眠を自覚すると酒量が増えがちであるが、これは逆効果
また、抑うつ症状にも悪影響を及ぼすことが知られている
不眠症やうつ病の治療中は少なくとも節酒、できれば断酒することが望ましい
こうした浅-深-浅のサイクルは概ね90分前後であり、その整数倍の睡眠時間が効率的で目覚めがよいとされる
他の疫学調査の結果とも合わせ、多くの人にとって最適の睡眠時間は7時間半(5サイクル)程度と考えられるが、実際には6時間(4サイクル)に満たない人も多いであろう
日本人の睡眠の現状
懸念材料が多い
勤労者や子どもの平均睡眠時間は先進国中で格段に短い
数十年前に比べて平均睡眠時間が短縮している
21世紀における国民健康づくり運動は「栄養・食生活の管理」「身体活動・運動」「禁煙・節酒」などと並んで「十分な睡眠の確保」を重要な目標として掲げたが、このうち最も達成度の低いのが「睡眠」であるとする自治体の調査結果がある
2-4. 抗うつ薬と抗不安薬
副作用の多くは三環系抗うつ薬のもつ副交感神経遮断作用によるもので、便秘・口渇・排尿困難などがうつ病の身体不調感をさらに強める他、不整脈など危険な症状もあった 三環系抗うつ薬はさまざまな神経伝達物質の働きに影響を与えるため、その作用機序は不明の点が多い より特異的な作用をもつ抗うつ薬といて開発されたのが
SSRIにもSNRIにもそれぞれの副作用があるものの、三環系抗うつ薬に比べれば不快感や危険が少なく、長期服用により適したもの
最近では、うつ病の薬物療法はまずSSRIやSNRIから開始するのが常道となっているが、効果が不十分なときには三環系抗うつ薬が用いられることもある
抗うつ薬は当初はもっぱらうつ病の治療のために用いられたが、後に一部の抗うつ薬に強迫症状を軽減する効果があることがわかった こうした抗うつ薬の多様な作用のメカニズムはまだよくわかっていない
ベンゾジアゼピンが開発された当初は、それ以前にバルビツール酸に比べてはるかに安全だったこともあり、世界中で広く重用された しかし、処方された用量を遵守したにもかかわらず、減量・中止しようとすると離脱症状が出現して服薬がやめられなくなる現象(常用量依存)が報告され、長期投与の危険が明らかになってきた 現在、欧米の大半の国々では、ベンゾジアゼピン系の不安役や睡眠薬の処方期間が2〜4週間程度に制限されているが、わが国ではまだ同様の制限が行われていない
ベンゾジアゼピン系の抗不安薬や睡眠薬の処方は短期間あるいは頓用に限定し、常用量依存の生じない抗うつ薬や非薬物的治療を活用するなどといった、適切な処方慣行の定着が望まれている